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2006年9月18日 (月)

大田堯の『教育研究の課題と方法』と論文のスタイル

 昨日のもう一つの授業では、大田堯の『教育研究の課題と方法』を扱いました。堀尾輝久の『教育入門』といい、なんか、今的ではない、教育学かもしれません(汗)。でもまあ、こういう世界を全く知らない学生さんには、知らせておくことも、必要なんじゃないかなあ、と思いまして。

 大田先生のご著書は、いわゆる学術的な論文のスタイルとは違うものが多いと思います。本当に、一般の人に語りかけている、というか。大田先生の東大時代の講義を聴かれていたある方は、「漫談」だと言っておられました。ものすごく引き込まれる、と。でもその方は、その後に、ネガティブなニュアンスのことを付け加えてらっしゃいましたけれど。

 今回扱った『教育研究の課題と方法』も、註記はあるものの、キー概念はこのような定義で用い、論文の課題はこうで、仮説はこうで、こういう実証を行って、こういう結論が出ました、といった、よく学会誌で読むようなパターンの論文ではありません。

 学生さんの中には、理系出身の方がいて、いわゆるこういったパターンの論文に慣れている方ですからね、あまりにもなじみがないスタイルだから、「新鮮」だと言われていました。そうとしかコメントできなかったのかもしれませんね。ごめんなさいね。

 こういう、論文のスタイルの違いについて、内田樹さんが、以下のように書いています。内田さんは、転載をお許しくださっている方なので、以下のそれを貼り付けます。

さらさらと小テストの採点をしていると院生のS田くんが、修論の相談に来る。
学術論文のライティングスタイルとして規範化されている作法がどうも肌に合わないというご相談である。
学術論文のスタイルには「アングロサクソン型」と「大陸型」の二種類がある。
社会科学系の論文は(理科系の論文に準じて)アングロサクソン型で書かれるのが普通であるが、宗教や哲学や文学などについて論じる場合は、論文を書きつつある主体自身の思考や文体そのものの被投性を遡及的に問うという面倒な作業を伴うために「大陸型」(フーコーやデリダやレヴィナスやラカンのような書き方)で書かれるのが普通である、ということをご説明する。
「大陸型」の書き手は「アングロサクソン型」の書き物をすらすら読めるが(だってわかりやすいんだもん)、「アングロサクソン型」の書き手は「大陸型」の書き物を理解しようとする努力を惜しむ傾向にある。
S田さんは宗教的経験・霊的経験について論述する予定であるようだが、こういう論文では鍵語(「神」とか「霊」とか)を一義的に定義することができない。鍵語を定義しないままで、「鍵語を定義しえない人間知性の限界性」そのものを問い返す作業をアングロサクソン型の論述で進めるのはかなりむずかしい(できないことではないが)。
学術性を確保しながら、学術性の基礎づけそのものを問い返すためには、言語的なアクロバシーが要求される。
まず「言葉を操る技術」がなければ、何も始まらない、というようなことをお話しする。
お役に立てたであろうか。

 大田先生が『教育研究の課題と方法』で書かれているものも、このようなスタイルで、思考されたものだと思うのです。

 私自身は、社会科学系の大学院を出ていますから、周りは「アングロサクソン型」の論文を書かれる方ばかり。私自身も、そういうものを書いてきました。

 そのもう一方で、「大陸型」のものも読みつつ。確かに、大陸型のものはなかなか読めないものです。

 けれど、読んで、満足のため息をつきながら本を閉じることができるのは、圧倒的に後者なのです。私の場合は。

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