一般誌の教育論。
一般の11月号で3誌(もっとあるかもしれないけれど)が、教育問題について特集をしています。『中央公論』の「公立校は立ち直るか」、『文藝春秋』特別版の「教育の力を取り戻す」、『Voice』の「教育は再生するか」といった感じです。
とりあえず、3冊を買って、読む。
ふむふむ。
執筆者でかぶっている方もいらっしゃいます。八木秀次さんが『Voice』と『中央公論』、内田樹さんが『文藝春秋』と『中央公論』、茂木健一郎さんが3冊に。テーマは違ったりしていますが。このお3人は、なんとなく私の中では近い方々なので、なじみのって感じです。
もちろん雑誌には「主張」というものがありますから、それはそれで楽しく読むのですが、なんとなく、『中央公論』のトーンが面白かったです。内閣官房副長官の下村博文さんの「水準を満たさない学校と不適格教師は退場してもらう」という記事の次に、内田樹さんの「“公教育”の知的プラットホームを再建せよ」というインタビューが続きます。
前者では、公立の「私学化」を図るべきことが強調されています。後者では、私立校では“公民性”が育たない、と主張されていますから。一つの雑誌としてみると、なかなか面白いと思います。こういう雑誌のつくりって、いいと思うんですよ。
この2つのインタビュー、個々の論点はいろいろありますが、一つだけ。
内田樹さんの最後の部分は、いつもの内田さんのトーンなのですが、いいですよね。
「「こうすれば絶対よくなる」という断言は教育の現場では禁句。革命と同じで、正義を一気に実現しようとすると必ずもたらされたもの以上のものが破壊される」
本当にそうだと思うのです。
それからもう一つ。
同じく内田樹さんが『文藝春秋』に書かれた「教育崩壊と経済合理性」というエッセイには、次のように書かれています。
「いま大学は「志願者を選ぶ時代から志願者に選ばれる時代」になったと言われている。しかし、それは子どもの欲望にすり寄り、子どもにもわかる利益によって誘導する教育機関だけを残すことに同意することである。市場原理に従えば、「6歳児でもそこで学ぶことがもたらす利益を理解できるような大学」がもっとも多くの志願者を集めることになるだろう。現に、日本中の大学は生き残りをかけてそのようなものになるために全力を尽くしている。
この事態を形容するのに「教育崩壊」という以外の言葉を私は思いつかない。」
アジールの教育理念を文章化してほしいと、方々から言われます。今の私の水準で書けること、あるいは、アジールを「選択」してくださる方が理解する水準で書けることは、確かにあるのかもしれません。けれど、どうもそれでは、私の目指している実践を表現することができないように感じてしまうのです。
どの水準で書くか、まだよくわからないのですが、一つには、「アジールに来ると、こんな「いいこと」がある」というのが、オーソドックスなパターンなのだと思います。内田さんは、『中央公論』の方では、こう書かれています。
「消費者としての親が投資とリターンの図式で教育を考えるから、当然学校の側も、「うちに通うと、こんないい大学に入れますよ」「こんないい会社に入れます」とか「こんな資格や免許状がもらえます」といった換金性や社会的需要の高い「教育商品」をわかりやすく提示するようになる」
それが子どもたちにも入り込み、結果として、子どもたちの知的水準でもわかるようなリアルな利益として内田さんは、金、権力、エロス的愉悦などをあげておられます。
もちろんこういった需要を無視するつもりは私はありません。きちんと学力をつけて、自立して生活をしていくだけのお金を稼げるような職に就くこと、そのために資格や免許状を取得することを軽視するつもりはありませんから。
でも、そこにとどまらないような学びをアジールでは組織していきたいと思っているのです。自分の理解の及ばない範囲、すなわち他者がいるということを知らせることは、教育が行う大切な仕事の一つだと思うのです。ただ、そういった明示的にわかりやすいものではないものを掲げて、それこそ、「志願者に選ばれる」のか、疑問、あるいは不安が無いわけではありません。
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