実は私は、研究的には「霞」を食うような探究をしたいと思っている人間です。
教育実践に非常に近いところにいるものですから、研究者の中では、教育実践といえば私、みたいなイメージを持たれている方も少なくないと思うのですが、本当は、そうでもないんですよね。
私自身は、教育実践に対して、実践への敬意を抱くがゆえに、それを研究の対象にしたくないという気持ちが強いのです。
このこともどこかで時間を取って書きたいことではあるのですが、また「別の話」になってしまいますから、今日はやめておきましょう。
数年前、大学院受験の指導した学生さんの、私の指導に対する感想を、ばったり偶然、今日、目にしました。アジールではない、外の学校で教えた学生さんなのですが、その学生さんの感想は、私の固有名詞が入った感想であったにもかかわらず、私に伝えられることはなく、数年間、そしてもし、私が今日、偶然目にすることがなければ、一生、知ることがなかったものだったはずです。
彼を指導してから、時間が経ってしまっていますし、もう彼は、私の学生としては「存在」していないわけですが、彼の1枚の感想を読んで、彼はここに「存在」している、と感じてしまいました。
それはちょうど、レヴィナスが「存在するとは別の仕方で」として表現したかったような感覚に近いのではないでしょうか。
私は、「霞」の研究として、レヴィナスの世界をちょっとでも知りたい、と思っている人間です。
自分が一番辛かったとき、支えにしていたものの一つが、レヴィナスでしたし。
彼の感想を、何度も読み返しました。
私としては、本当に十分なことをしてあげられなかったのではないかと思うことが多い学生さんでした。でも、ご本人に力があったから、大学院に合格できたのではないかと思っています。そう思って、申し訳ない気持ちが多い方だったのです。私の中には、そういう後ろめたさがあった方だったのです。
けれども彼は、私の指導に満足してくださっているようでしたし、私の講義やその運営についても、肯定的なコメントをくださっていました。そして、彼と学んだ数ヶ月のことをリアルに思い出しました。そして今、彼が「存在」している、と思ったのです。
バルトの「読者の誕生」や、ラカンの師弟論ではありませんが。
教師や作家が意識して送ろうとしているメッセージ以上のことを、弟子や読者は学んでいるのだと思います。
まさに彼は、そういう学生さんだったのではないでしょうか。だから、私が与えたもの以上のものを学んでいかれたのだと思います。
私自身も、一人の学び手として、彼のような学びをしたいともちろん思います。
この私の記事を彼が読んだら、「そんなにおおげさなものじゃないから」と言うと思います。でも、いいじゃないですか。私も、君が与えたこと以上の「読み」をしようと思っているんですよ。そういう「誤読」があってもいいじゃないですか。
それにきっと、私が彼のメモを、今日のこんな偶然がなければ、おそらく一生目にしなかったように、彼もこの記事を読むことは、ないでしょうから。
こんな「誤読」の力。
そういう学びができるような力をアジールの生徒さんにはつけてほしいと思います。
そのために私は教師として、できる限りの努力をしていきたいと思っています。
ありがとう。○君。
君の数年前の「メモ」が、今の私に暖かい気持ちを持たせてくれました。
さて。
レヴィナス、バルト、ラカンときましたから、Teteさん、ぜひ、コメントを(笑)。
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