教育系レポート作成例;課題文型(大田堯)
昨晩、ブログを書いていたのですが、なぜか途中でデータが消えてしまった(涙)。PCがフリーズしてしまったんです。ああ……。
気を取り直して、課題文型のレポートを書いてみましたので、掲載します。
今回、課題文で取り上げた大田堯は私の大好きな研究者の一人。教育学を学ぶ方、教師を目指す方にはぜひとも触れてほしい方の一人です。
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出題:次の文章を読んで、子どもの発達と大人の関わりについてあなたの見解を述べなさいい。
実際、考えてみると現在の子ども・青年はあまりにも大人たちからあてにされなさすぎます。彼らは失業者です。ごく幼いころからそうなのです。なめるように可愛がられ、保護されるということはあっても、あてにされていないのです。保護の対象ではあっても、目的をもった主体としてあつかわれていないのです。(中略)
あてにされるほどひとを“やる気”にするものはありません。そうすることが、大人世代が子ども・青年を内面から尊重することなのです。貧しく、ときに虐待もされましたが、かつての子ども・青年は、ある意味で早くから大人からあてにされて発達したことはたしかだと思います。小学生でも水汲みから牛の鼻とりまで、いろいろなことで大人にあてにされる仕事があり、任務がありました。
自治とは、相互にあてにし、あてにされる関係の中での人間の創造的活動とでもいうべきでしょうか。私たち大人世代の立場でいえば、子ども・青年を庇護し、保護するだけでなく、思いきって彼らをあてにし、彼ら自身が目的を持ち、試練に耐えながら、責任ある任務分担を果たしてもらうという関係をつくり出すことです。彼らの自治を大胆に期待するということです。
(出所:大田堯、1983『教育とは何かを問いつづけて』)
【解答例】
真剣な意味で「あて」にされることによって、自分が持っている以上の力を発揮し、成長の契機にしていくということは、私自身の経験とも重なるものだ。「あて」にすることの教育的効果をねらって、それ程「あて」にしていないにもかかわらず、「あて」にしているような「演出」は、子どもは直感的に見抜いてしまう。本気で子どもを「あて」にすること、そこに子どもの発達の重要な契機がひそんでいるように思うし、その意味で筆者の主張に私は全面的に共感する。
保育園の保育士から、このような話を聞いたことがある。保育園で年長の子どもたちは、最上級生として年下の子どもたちの面倒を見るし、行事などでもリーダーシップを取って大活躍する。しかし、小学校に入学したとたん、何もできない1年生として、面倒を見てもらうだけの存在になってしまう。あの子たちは、いろいろなことができたのに、と。
保育園で見せた年長の子どもたちのこの活躍こそ、子どもを「あて」にすることによってなされた発達ではなかろうか。保護の対象としてのみ大人が子どもに関わることによって、子どもの発達の契機を奪ってしまうこともあるのではないか。
子どもの発達のために大人がなすべきことは、直接的に教えるということだけではない。一歩ひいて、子どもに任せることによって発達を保障することができる場面があるのではないか。それは、放任とは異なる。子どもを「あて」にする場面が減少している今日だからこそ、大人と子どもの関係性を問い直していく必要があるのではないかと私は考える。
【解説】
まず、子どもの発達と大人の関わりについて述べる際、出題文に言及しながら見解を述べることが重要である。テーマが独自に展開されていたとしても、出題文との関わりが読みとれないものでは、出題の意図が理解されていないと判断されてしまう。また、出題文をなぞるだけのような解答も避けたい。出題文の筆者の考えと自分の考えを区分けしていくことが大切である。
出題文の大田の「あて」にするという子ども・青年との関係性認識は、子ども・青年を生活者として捉えるという大田の子ども観が反映しているものと思われる。子ども観をめぐっては、近代以降、何度も議論されている。他の子ども観についても学習しておきたい。
なお、出題文である大田堯の『教育とは何かを問いつづけて』は、教育を考える上で是非読んでおきたい。
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