教育学の学習・研究

2007年7月29日 (日)

モンスターペアレント

最近、「モンスターペアレント」という言葉をよく耳にしますよね。学校に理不尽な要求を持ち込む親御さんたち、といった意味でしょうかねえ。
だいたい、アジールのような教育機関でこのようなことを記述していくのは、実はちょっと、勇気がいるのではありますが(汗)、でも、アジールに今関わってらっしゃる親御さんとは全く無関係なことですので、自信を持って書いちゃいます(笑)。
モンスターペアレントの皆さんが学校に持ち込む要求の理不尽さは、まあ、あちこちで書かれていますよね。義務教育は無償だといって給食費を支払わない、子どものいじめ・けんかに慰謝料を払ってと弁護士と一緒に学校にやってくる(そういえば、教職員組合には裁判保険がありますよね)、子どもの嫌いなものを給食から抜いて、等々。
こういった親御さんからの要求のまいってしまう先生方も少なくないそうです。

モンスターペアレントについては、自己中心主義をもじって、自子中心主義というとか。
なぜ、こういう親御さんが増えたかについては、消費社会論から分析ができると思うのですが、それは次回に送ることとして、今日は、自分の要求を通すこと、について書いておきたいと思います。

人間やっぱり、自分の要求を通したいと思うのは、尤もなことですよね。
ただ、そこが最終的な目標なのに、モンスターペアレントの皆さん、それでは実はあなたの要求は通りにくいんじゃないんですか、と正直私は思うのです。
だって、ものすごい勢いで糾弾されたら、先生だって、嫌な気分になってしまいますよね。それで、さりげなく避けたり、とか。人間ってそんなもんじゃないですか。
それよりも、友好な関係を築いて、相手を気持ちよくさせて、**さんのためだったら一肌脱ぐよ、って言わせるような関係の方が、実はうまく要求が通ると思うんですよ。
自分が「エライ」立場に立って糾弾するよりも、その方が気持ちよく、かつ、合理的に要求が通ると思うんですよね。
そう、物事は合理的に考えなくちゃ。
だから、私を使いたいと思ったら、「先生、これもしてください」「どうしてしてくれないんですか」「困るんですけど、それじゃあ」と迫るよりも、私に、「まあ、仕方ないよね、**さんのためなら」と思わせていただいた方が、勝手にがんばってしまう、かと(笑)。
もともと人間というのは、オーバーアチーブなもので、過剰に仕事をしてしまうものです。だから、そういうお互いに良い気持ちになって、がんがん仕事をした方がいいかな、と思うのですよ。
ははは。こういうモンスターペアレント論はだめかな??

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2007年7月28日 (土)

彼らから「何を学ぶことができるか」

昨日、内田樹さんのブログがいいよね、という記事を書きました。すると、「どこが?」と問われたので、ここだよ、というのを再掲します。もちろん、全部が好きなんですよ。だから、全部を昨日、転載したんですがね。でも、このコラムの主題というよりも、私自身の好みでは、ここが「学べた」んですよね。

私自身は人間の社会的価値を考量するときに、その人の年収を基準にとる習慣がない。
どれくらい器量が大きいか、どれくらい胆力があるか、どれくらい気づかいが細やかか、どれくらい想像力が豊かか、どれくらい批評性があるか、どれくらい響きのよい声で話すか、どれくらい身体の動きがなめらかか・・・そういった無数の基準にもとづいて、私は人間を「格づけ」している。
私がご友誼をたまわっている知友の中には資産数億の人から年収数十万の人までいるが、私が彼らの人間的価値を評価するときに、年収を勘定に入れたことは一度もない。
私にとって重要なのは、私が彼らから「何を学ぶことができるか」だけだからである。
同じ基準を自分にも当てはめて、以て規矩としている。
人々が人間の価値について、それぞれ自分なりの度量衡をもち、それにもとづいて他者を評価し、自己を律するならば、「格差社会」などというものは存在しなくなるだろう。

そうか、内田さんはそういうところで人を評価されているんですね。
どれくらい器量が大きいか、どれくらい胆力があるか、どれくらい気づかいが細やかか、どれくらい想像力が豊かか、どれくらい批評性があるか、どれくらい響きのよい声で話すか、どれくらい身体の動きがなめらかか。なるほど。ああ、私ってば全然だめですね。
そして、「私が彼らから「何を学ぶことができるか」」。
そういうふうに人と接することができたら。
こういう度量衡を自分の中で持つことって大切ですよね。
私がこういう度量衡を持つこと、それが「アジール」の育てたい人のモデルになるのだろうと思います。

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2007年7月27日 (金)

「金の全能性」

内田樹さんのブログを読みました。う~ん、やっぱりいいですねえ。
私にとってはいつもの内田さんのトーンなのですが、でもやっぱりいいのです。あまりにもうれしかったので、前文を以下に貼り付けます。
もちろん、これは理想論だと言われることはわかっていますし、すぐに私だって、こういう世界が来るとは思っていません。でも、こういうことを頭の片隅においているのといないのとでは、ちょっと違うんじゃないかな。
私もやっぱり、お金のことを語れない人かもしれません。もちろんそれじゃ、今の私の仕事的にはまずいんでしょうが(汗)。大丈夫、反省もしていますから(笑)。

格差社会って何だろう

「格差社会」という言葉が繰り返し紙面に登場する。
格差がどんどん拡大しているから、これを何とかしなければならないという現実的な(あるいは非現実的な)さまざまの提言がなされている。
どなたも「格差がある」ということについてはご異論がないようである。
だが、私はこういう全員が当然のような顔をして採用している前提については一度疑ってみることを思考上の習慣にしている。
「格差」とは何のことなのか?
メディアの論を徴する限りでは、これは「金」のことである。
平たく言えば年収のことである。
年収数億の人もいるし、数十万の人もいる。
とくに年収が低い階層のヴォリュームがこのところ急増している。
パラサイトシングルというのも、フリーター・ニートというのも、ネットカフェ難民というのも、過労死寸前サラリーマンも、要すれば「金がない」せいでそういう生活様態の選択を余儀なくされている。
そういう説明がなされている。
ここから導かれる結論は論理的には一つしかない。
「もっと金を」
である。
しかし、この結論でよろしいのか。
私自身は、私たちの社会が住みにくくなってきた理由のひとつは「金さえあればとりあえずすべての問題は解決できる」という拝金主義イデオロギーがあまりにひろく瀰漫したことにあると考えている。
「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ「金の全能性」が過大評価され、その結果「人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会」 のことではないのか。
人々はより多くの金を求めて競争する。
競争が激化すれば、「金を稼ぐ能力」の低い人間は、その能力の欠如「だけ」が理由で、社会的下位に叩き落とされ、そこに釘付けにされる。
その状態がたいへん不幸であることは事実であるが、そこで「もっと金を」というソリューションを言い立てることは、「金の全能性」をさらにかさ上げし、結果的にはさらに競争を激化し、「金を稼ぐ能力」のわずかな入力差が社会的階層の乗り越えがたいギャップとして顕在化する・・・という悪循環には落ちこまないのだろうか。
私は刻下の「格差社会」なるものの不幸のかなりは「金の全能性」に対する人々の過大な信憑がもたらしていると思う。
だから、あらゆる不幸は「金の全能性」によって解決できるという信憑を強化することは、文字通り「火に油を注ぐ」ことにひとしく、ますます格差を拡大し、固定化する結果にしかならないだろうと思っている。
私自身は人間の社会的価値を考量するときに、その人の年収を基準にとる習慣がない。
どれくらい器量が大きいか、どれくらい胆力があるか、どれくらい気づかいが細やかか、どれくらい想像力が豊かか、どれくらい批評性があるか、どれくらい響きのよい声で話すか、どれくらい身体の動きがなめらかか・・・そういった無数の基準にもとづいて、私は人間を「格づけ」している。
私がご友誼をたまわっている知友の中には資産数億の人から年収数十万の人までいるが、私が彼らの人間的価値を評価するときに、年収を勘定に入れたことは一度もない。
私にとって重要なのは、私が彼らから「何を学ぶことができるか」だけだからである。
同じ基準を自分にも当てはめて、以て規矩としている。
人々が人間の価値について、それぞれ自分なりの度量衡をもち、それにもとづいて他者を評価し、自己を律するならば、「格差社会」などというものは存在しなくなるだろう。
こういうことを書くと、「お前は金があるから、そういう気楽なことが言えるのだ。金のない人間の気持ちがわかるか」というような定型的な反論が向けられるだろう。
それに対しては、「わからないね」としかお答えしようがない。
もちろん私がつねに変わらず大金持ちであったからではない。
私は長い間同年齢の人々の平均年収のはるか下、底辺近い「貧困」のうちにあった。
だが、私はいつでもたいへん陽気に過ごしていた。
ご飯を食べる金がないときも、家賃を払う金がないときも、私はつねにお気楽な人間であり、にこにこ笑って本を読んだり、音楽を聴いたり、麻雀をしたりしていた。
たいていそのうち誰かが心配して、私のために手近なバイトを探して来てくれたので、間一髪のところを何度もしのぐことができたのである。
私がつねに変わらず陽気でいられたのは、年収なんか人間の価値とはぜんぜん関係ないということを深く、魂の底から、「確信」していたからである。
「金持ち」とは定義すれば「金のことで心を煩わされない人間」のことである。
そういう意味では私は貧乏なときもずっと「金持ち」であった。
「格差社会」論というのは、言い換えると「金のことをつねに最優先で配慮する」ことこそが「政治的に正しい」ふるまい方であるとする判断に同意署名することである。
「金のことをつねに最優先に配慮する人間」は私の定義によれば「貧乏人」であるので、格差社会の是正のために「もっと金を」というソリューションを提示する人々は、論理的に言えば、彼ら自身「貧乏人」であり、その読者たちもまた「貧乏人」であり続ける他ないということになるであろう。
私の師であるエマニュエル・レヴィナス老師のさらに師であるモルデカイ・シュシャーニ師は、家族を持たず、定住する家を持たず、世界を放浪し、気が向くと富裕なユダヤ人家庭に寄寓してタルムードを講じてわずかに口を糊する、年収かぎりなくゼロに近い人であった。
「師はひとからは乞食のように見えたであろう」と老師は語っている。
私はシュシャーニ師のような人に生活できる程度の年金が支払われる社会を実現することよりも、師のような人が十分な知的敬意を以て遇される社会を実現することの方が、ずっと大切ではないかと思う。

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2007年7月18日 (水)

高校・到達度検定。

朝日新聞の記事からです。
高校生の到達度検定を文科省が検討しているそうです。
高校卒業を認定する学力テストって、諸外国でもありますからね。
具体的にはどういうものになっていくのでしょうか。

http://www.asahi.com/edu/news/TKY200707130486.html
高校生に到達度検定 大学入試に活用も 文科省検討
2007年07月14日

 文部科学省は、高校での学習状況を評価するため在学中に検定試験を実施することの検討に入った。大学入試の合否判定資料としても活用することで、全国で昨年相次いで発覚した必修科目の未履修問題のような、大学入試を過度に意識した一部の高校のあり方を是正することを期待する。その一方、大学側が検定をどう活用するのか未知数の部分もあり、同省は幅広く意見を聞いて実現の可能性を探る方針だ。

 文科省は、13日に開かれた中央教育審議会(文科相の諮問機関)の教育課程部会に提案。導入を検討すべき理由として(1)高校卒業までの到達度評価は結果的に、大学入試の合否で決まってしまっている(2)高校や第三者機関が学習成果を客観的に評価し、大学が選抜に活用する仕組みが考えられる――ことを挙げた。

 この案には複数の委員が賛同。「大学入試センター試験を資格試験のような形としたうえで教科ごとに2級、3級といったグレードをつけ、大学ごとに入学のための条件を設けることも考えられる」(市川伸一・東大教授)、「履修したことを認定する第三者機関があれば、高校教育もより妥当になる可能性がある」(渡久山長輝・元日本教職員組合書記長)などの意見が出た。

 実施する場合はセンター試験のように高校の終了段階ではなく、「在学中に受けられたり、複数回の受験が認められたりすべきだ」という検定の方法に踏み込んだ意見もあった。

 文科省はまた、高校までの教育で重視する思考力や表現力などを含めた「総合的な学力」と、大学入試で測ろうとする学力との整合性をとる必要があると提案。これについても、「2、3日のペーパーテストでは限界がある。高校での学習状況や面接も考えないといけない」(木村孟・大学評価・学位授与機構長)、「入試では、高校での指導履歴が提示されるべきだ。今は何を学んだのかブラックボックス」(天笠茂・千葉大教授)など、前向きな意見が出された。

 学習指導要領を検討する同部会は学校教育法の改正案が成立したことを受けて、年明けの答申を目指して作業中。検定制度の導入を含めた到達度評価のあり方についても検討する。答申を受けて指導要領が年度内に告示された場合、早ければ11年春から施行される。

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腑に落ちた指導。

「学房アジール」では、教育系大学の学生さんの卒業論文・修士論文の指導を行っています。指導する側も結構大変なのではありますが、それだけにやりがいがあって、楽しい仕事です。
指導の時間は、毎回指導料をいただいているのではありますが、非常に申し訳ない話で、ものすごく話が前進したときと、残念ながら、多少は進んだものの、いまひとつ、腑に落ちないなあと思うことがあります。後者の場合は、本当に申し訳なくて、いたたまれない気持ちになります。
もちろん私は、一定程度の準備をして指導に臨むのではありますが、必ずしも予定通りに指導が進むわけではありません。学生さんの状況が変わって関心が移っているときなんかは、準備した内容が全部パー! でもまあ、私自身が楽しく学習できたので、それでいいかな、と思っていますけれどね。

そういうわけで、Cさんの指導の場合、前々回は、ちょっといま一つ、腑に落ちない指導になってしまっておりました。なんか私自身、歯切れが悪くて。ほんと、申し訳ない気持ちでいっぱいだったんです。
それが、前回の指導では。
本当に私自身は、非常に腑に落ちたのです。
今、私が関心を寄せているテーマは、教育の世界に市場原理が浸透したことの弊害についてです。とはいっても、この「アジール」自体が、国公立の学校というわけではないわけですから、市場原理から免れることはできません。それを否定できない存在なのです。
でも、教育の世界に市場原理が入り込むことの弊害も、私は非常に強く感じているのです。
私自身が、非常に大きな矛盾した存在であるということ。それが、アジールの仕事をしていて、日々、痛感することなんです。
もし、アジールを開いていなかったなら。
教育の世界に市場原理が入り込むことを、もっとすっきりとした心持ちで批判することができたことでしょう。
けれど私は、そういうことができない立場に自らを置いてしまっています。
だから、本当に、特に今年に入ってから、私の言葉は歯切れが悪いのです。非常に。

おっと。これはかなり脱線してしまいましたので、また後日。
まあ、そういうことで、この市場原理と労働の本性、異化論、このようなところで彼女の修士論文の骨格が作られてきています。
こういう方向性が、彼女の指導教官のご意向に添えるか、それがちょっと心配なところがないわけではありません。ただ私は、彼女と議論していて、久々にわくわくしたんですよ。
こういう体験ができるということが、論文の指導をしていて楽しいところです。だって、自分が論文を書いているわけではないのですが、それに近い体験ができるのですから。
Cさん、このような機会を私にくださってありがとうござます。
もう、課題意識がはっきりし、論文の構成がしっかりしてきましたから。
この夏は、書けるところから、どんどん書いていきましょう。

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2007年7月17日 (火)

学力テストの誤答指摘について。

7月17日付毎日新聞によると、昨年度足立区で実施された区学力テストで、クラスを巡回していた校長を含む教師達が、誤答していた子どもたちに間違っている問題を指差して、もう一度考えるよう促すといった不正行為があったという。この小学校では、テスト前にテストの過去問演習を行っていたら、成績が悪そうな子どもたちを採点から除外していたという。テストの成績は、一昨年度は区内72校中44位から、昨年度は1位に。再考を促すといった不正はともかく、過去問演習や一部の子どもの除外は他の学校でも行われていたそうだ。足立区では、区学力テストの各校順位をHPで発表して、学校毎に予算を傾斜配分している。今後は、順位の公表を見直す方針だとか。
こういうことって、「起こるべくして起こった」というのが、正直な感想です。かつて行われた全国一斉学力テストでも、同様の行為は行われていました。例えば、『愛媛新聞』1962年7月1日付には以下のような投書が掲載されていたといいます。国民教育研究所編の『近現代日本教育小史』から、一部紹介いたします。

私の子どもは新居浜市K中学校の2年生です、先日行われた学力テストに、私のこどもも参加しました。テストのあった日、こどもが家へかえり、「理科の一番の問題の答えは先生が教えてくれた」といいます。よく聞いてみますと「先生はテストをやっているあいだ、答えを書いた紙片をみんなに見えるようにヒラヒラさせながら教室を歩きまわっていた。答えがまる見えだった。あんな風にしてみんなに答えを見せるのは学校の点をよくするためだろう」といいます。「まさか……」と思っていましたが、お友だちが2、3人きて話し合っているのを聞きますと、これは事実のようです。

これは、足立区に限ったことではないのですが、いろいろなテストで、学校別の成績を公表している教育委員会は結構あります。特に今、東京都の場合は、公立学校の学校選択が広がっていますから、この成績の公表は、学校選択を大きく関連してくることになります。成績が良くないから選択されず、「つぶれる」学校もでてくるかもしれません。
教育の場に市場原理を持ち込むということは、こういったことを必然として呼び起こします。
まあ、私学や、学習塾といった教育産業では、すでにこういう世界に入っています。もちろん、そうなっている現実を肯定するつもりはありませんけれど。
でも、アジールもいわゆる「教育産業」の一つですからねえ。
教育と市場原理の矛盾は、おそらく公立学校よりは痛切に感じていると思うのです。

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2007年4月10日 (火)

どう思いますか?

ネットでこんな記事を見つけました。皆さん、どう思われますか??

「留年通告」ゼミ生自殺、高崎経済大准教授を懲戒免職(読売新聞)

 群馬県高崎市の市立高崎経済大学の女子学生(20)が1月に自殺し、大学は9日、ゼミで教えていた経済学部の男性准教授(38)が「理不尽で教育的配慮を欠いた留年通告をした」などとして同日付で懲戒免職処分にした。

 大学によると、女子学生はゼミに2006年9月から参加するはずだったが、自主的に早めて6月ごろから参加。准教授は8月にゼミ学生に課題を出し、12月に提出していない女子学生ら3人に、「1月15日までに課題を出さないと即留年」というメールを送った。自殺当日となった同15日には、未提出の2人のうち女子学生だけに催促のメールを送っていた。

 課題は、アダム・スミスの重商主義批判の論点を説明させるなど10の設問から五つを選んでリポートするのと、新聞社説10本の要約とそれについてのコメントをまとめるという内容。大学側は「大学院生並みの厳しい課題。ある課題がこなせなかったというだけで即留年というのもおかしい」としている。また、准教授は、他の学生に対しても人格を否定するような暴言やセクハラ発言などがあったという。

驚きました。
この准教授の「暴言」がどのような質のものかはわからないのですが、「課題ができなかったら留年」というようなことは、私でも言ってしまいそうです。でももちろん、この課題の中身もわからないので、コメントができませんが。

この准教授についてコメントするのは難しいです。
ただ、私自身、若い方々の「教育」に関わっていて、やはり、本当に現代の若者は大変だなあと思うことがたくさんです。
ほんと、大変なんですよ(涙
でも、彼らがそうなのは、ちゃんと教えられていないから、ということも少なくありません。
もう大人なんだから、大学生なんだから、高校生なんだから、と思わずに、丁寧に教えていくしかないのかなあと思います。
じゃない??


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2007年3月16日 (金)

小論文の授業。

明日は、小論文の授業です。こうして夜な夜な、資料を作成しています。今回の課題は、課題文型の小論文です。課題文には、次のような文章を選びました。「リンクフリー」と筆者が言われていますので、ブログに転載しても問題ないでしょう。

課題1
 次の文章を読み、考えるところを800字以内で論じなさい。(60分)

「子育ては苦役だ」という言い方も「子育ては至福だ」という言い方も、どちらも正しいと私は思う。
苦役でありかつ至福であるような経験。
もっとも人間的な経験はたいていそういう質のものである。
親の仕事の目的は、子どもが「親を必要としなくなる」ことである。
自分の存在理由を消去するために全力を尽くす。
そのような仕事だけが真に人間的な仕事である。
医者の理想は「病人がいないので、医者がもう必要でない世界」の実現である。
警察官の理想は「犯罪者がいないので、警察官がもう必要でない世界」の実現である。
それと同じように親の理想は「子どもが自立してくれたので、親の存在理由がなくなった状態」の達成である。
そういうものである。
いつまでも子どもが親の支援を必要とするような関係を作ろうとする親は、病原菌をばらまく医者や凶悪事件の発生に歓声をあげる警官と同じように、不条理な存在なのである。
子どもが成長することは親の喜びであり、子どもが成長して親を必要としなくなることは親の悲しみである。
喜びと悲しみが相互的に亢進するというのが人間的営為の本質的特性である。
楽しいか悲しいか、どちらかに片づけてくれないと気分が悪いというようなシンプルマインデッドな人は「人間に向いてない」と私は思う。

皆さんは、この文章をどう読まれます? 私はこの文章はとても好きで、いろいろな学生さんと一緒に考えています。
こういう矛盾した、不条理な営為。それが人間的な営みなんですよね。
私も教師の端くれです。切ないことですが、皆さんが私を必要としなくなることを目指して、精一杯の仕事をするのみです。

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2007年2月25日 (日)

卒業論文をどうしよう。

 昨日は、アジールに入る相談のうち、教員免許の取得について書きました。
 今日は、もう一つの相談を。
 それは、卒業論文です。

 教育系の大学院を受験される方から、卒業論文の指導についてご相談を受けました。その方は、本当に熱心で、勉強をして、良い卒業論文を書きたい、そして、大学院に進学したい、というご希望をお持ちです。
 そんなに熱心な方なのですが、大学では、卒業論文の指導をあまりしていただけないそうで、相談にみえた、というわけなのです。もちろん、良い卒業論文を書きたいというお気持ちもあるでしょうし、それに加えて、大学院で、卒業論文あるいはそれに代わる論文の提出が求められている、ということがその理由です。
 教育系の大学院では、こういった論文の提出を求める大学が少なくありません。私自身は、その方の研究力量を審査する上で、論文の提出を求めることは、非常に良いことだと思っています。私自身も、学部4年のときに、「大学院に持っていっても恥ずかしくない卒論を」と何度指導教官に言われたことか。
 しかし現実には、なかなかうまくまわっていないようです。今回の方だけでなく、何人もそういったケースを見ています。
 せっかく、意欲を持ってらっしゃるのに、こんなにもったいないことはないと思います。

 今、学力低下と子ども・学生に対していろいろなことが言われています。でもどこかで私は、若い学生さんたちの、まっとうに学びたいという気持ちを信じています。本物に出会わせてあげれば、学ぶことが進んでいくと思うのですよ。
 勉強したいのだけれど、どうやっていいのかわからないという方。
 一緒に学んでみませんか。

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2007年2月20日 (火)

関係性。

カズヲ君がブログにコメントをくださいました。相変わらず、スパムの(?)コメントが多く、皆でシェアしたいコメントがどうしても下の方にいってしまうので、ここで再掲します。

>人間の性格だって、関係性の中で決まってくる

同意です。
現象学の授業で、同じような話を聞きました。自分の存在(実存)そのものが、他者の実存との関係の中で現れるという発想です。

高校生くらいまで、集団によって自分の性格が変わることへの不安・いらだちがありました(いわゆるアイデンティティの崩壊でしょうね)。今では、そのどれも「自分」なんだと(そういった意味で、確かに自己「同一」性なのですが)思うようになりました。

完全に他者との関係性から独立した「自己」なるものは存在しないと思います。自分は、他者がいて始めて存在できるという人間観を持ち始めました。

なるほど。
カズヲ君、私自身はフッサールから始まってハイデガー、レヴィナスとたどっていますから。
根っこは同じだと思いますよ。

おそらく、本当に最近の議論は、関係論がはやっているのだと思います。
もちろん、関係論ですべてが押し切れるとは思わないのですが。
バランスが大切なんでしょうね、きっと。

私自身の場合は、一番心地よい関係性はどういうものなのか、ということを重視して相手と向かうことが常態化しています。
なので、30分きざみで6時間も人に会うと、本当にもう、くたくたになります。
一人ひとりに合わせて、微妙にピッチを変えていますから。
もちろん、今回の話題の「性格」という部分もありますが、声の出し方や話すスピード、リズム、イントネーション……。そんなものまでも変わってしまうものですから、主体性が無いというか(汗)。
でも、そうやって相手に同調することによって、相手との関係性が好ましいものになり、創造的になり、信頼が生まれます。そういうことが大切なのかなあと思っていますが。


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2007年2月18日 (日)

肌理の細かい教育。

Teteさんからコメントをいただきました。
例によって、迷惑コメントがものすごい勢いで入っていて、コメントが下に落ちてしまっています。
素敵なコメントでしたので、再掲します。
内田樹さんの『下流志向』の「アジール」の部分についてのコメントですね。

私も読みました。そして、ここの箇所を、明日会ったときにでも話そうと思ってました(笑)。多分、内田さんは前にも書いていたのだろうけれど、私の中では、大学の学生さんとの関係でのイメージ(一品持ち寄り宴会など)が強かったので、ちょっと新鮮でした。
 『狼少年のパラドクス』のほうは、「経営の棚に置いてもいいかも知れない」と思われるほど、大学経営のブログの記事が満載でした。それぞれの大学が、ダウンサイジングして肌理が細かい教育を行う。アジールは、その一つになるのかなあ。

はい、アジールは、そういう肌理の細かい教育を行う学校を目指したいと思っています。
だって、一人ひとり違う、人を育てる教育の場なのですから。
皆さん、助けてくださいね。

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2007年2月14日 (水)

今、求められている「学力」とは。

 さて今回は、「学力」について書いてみたいと思います。
 子どもたちが身につけなければいけない学力って、皆さん、どんなイメージですか? おそらく、多くは、センター試験に代表されるような知識を習得して、それをアウトプットする、そんなようなイメージではないでしょうか。
 確かに、そういった学力も大切だし、子どもたちに身につけておいてほしいことには違いが無いのですが、学力って、それだけではないんですよ。
 例えば、文部科学省が来年度に実施を予定している全国学力調査の予備調査で出題した問題です。問題例をこちらで掲載することが、技術的できないのですが(ごめんなさい!)、ここではもちろん、語句使用の問題や計算も出されているんですが、そういった暗記した知識をアウトプットするだけでは対応できない問題が出題されています。
 ちなみにこの出題傾向、都立の中高一貫校の適性検査や、OECDのPISA調査に通じているんですよ。アジールでは、こういった出題傾向を分析して、今、求められている学力に敏感に対応しています。それに、こういう分析って、面白いし(笑)。(その結果、生まれてきた疑問については、以前、「PISA調査の普遍性」で書いたとおりです。)

 もう少し細かく見ていきましょうか。

 この学力調査で特徴的なものは、文章を書く力を問う問題です。小学校の国語の問題を見ていきますね。

 この問題の一番は、いわゆる「調べ方」を問う問題です。知識の活用能力を高めることを目標として学習指導要領の方針に沿ったものですね。
 二番の方は、資料をもとにスピーチ用原稿を作成するというものです。これができるためには、まず、資料が読み取れなければなりません。提示された資料には、今回の原稿には必要のない箇所も含まれていますよね。じゃあ、必要な箇所はどこなのか、それをまず読み取った上で、それから原稿の作成です。原稿は、資料を書きうつすだけではだめですよね。資料の内容を自分のものにしたうえで、自分の言葉で書いていく必要があります。
 こういったことは、始めは抵抗があるかもしれませんが、慣れると、簡単にできるようになるものです。アジールの子どもたちには、こういった力を着実につけていくよう、指導していきたいと思っています。社会に出てから、こういう力は必要ですからね。

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2007年2月 5日 (月)

PISA調査の普遍性2。

 先日、「PISA調査の普遍性」を書いたところ、早速コメントをいただきました。ありがとうございます。私もお返事を書いたのですが、書いているうちにまた新たな考えが浮かんできたので、また書いてみたいと思います。

 私は、基本的にはPISAのような問題を教えることがあってもいいんじゃない? と思ってはいたのですが、直接には、この種の問題を子どもたちに教える中で、疑問が生まれてきたんですよね。それはなぜかというと、「知的な興奮」が得られないからです。

 確かに、選択において答えがなく、どちらを選んでも合理的な説明ができれば可とするPISA型試験の場合、それは確かにそうなのですが、どこかで中身が空洞化しているように感じてしまったのです。

 というのは最近、高校の現代文の教科書や、国語に課題意識を持つ学校の入試問題を読んでいていた思ったのですが、これらに採用されているテクストって、かなり良いものもあると思うんですよ。もちろん、石原千明さんが『国語教科書の思想』で批判しているような国語教科書の性格もあったとしても。

 今日読んだ高校生の教科書には、佐藤信夫の「レトリック感覚」からの文章や橋本治、中村雄二郎といった方々のテクストが掲載されていました。驚きましたね。私は佐藤信夫が好きで、だいたい著作は皆、持っている(読破したと言えないのが悲しい)のですが、こういったテクストを読ませるなんて、センスがいいなあと思うのです。

 そういえば、進学校で国語を教えている友人が言っていました。年配の方なのですが、例えばセンター試験とか、現代文のテクストを読解するのが難しい、と。

 それはそうかな、とも思います。だって、佐藤信夫なんかは、国文科で扱うテクストではないですよね。哲学かフランス現代思想、言語論、テクスト論といった文脈かと。もちろん佐藤信夫の夏目漱石論なんかはめちゃくちゃ面白いのですが。

 話がそれました。

 例えばこういうテクストを「読解」していくと、私はとても、知的にわくわくすることができるのです。頭を抱えたとしても、その学習を経た後には、世の中の見え方が変わっているように感じるというか。

 そういう体験が、「学び」だと思うのです。

 残念ながら、PISA調査の設問を難問解いても、そういったわくわく感を感じることができません。そこにPISA調査の学力観の貧困を直感したのだと思います。

 そういう意味では、ぽてたさんの書かれた身体性とは異なる文脈なのかもしれませんが。

 またこのことについて話しましょうね。

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2007年2月 4日 (日)

PISA調査の普遍性。

 今更ですが、『教育』(国土社)の2006年11月号の小林大祐さんの「学習指導要領改訂作業の性格分析」を読みました。大筋はOKという感じです。

 小林さんの論文でも言及されているのですが、今、文部科学省は、PISA調査の枠組みで教育課程を再編しようとしています。「読解力向上プログラム」や具体的な事例を読むと、ほんと、PISAを目指していることがわかります。

 そういえば、第1回のPISA調査が発表された頃、PISA型学力を全面的に肯定するような発言が、文部科学省批判の文脈で語られたように記憶しています。いわゆる「組合」系の方々から。そういった方々は、今回の文部科学省の教育課程の枠組みを、どうお考えになっているのでしょうか……。お聞きしてみたいところです。あ、ほんと、嫌味とか、全然攻撃的なわけではなくて、素朴なところ、お聞きしてみたいと思うのです。

 もう一つそういえば、石原千明さんも『国語教科書の思想』で、PISAを持ってきて日本の国語教育について批判をし、「グローバルスタンダード」として、PISAを紹介、それに合っていない、と語られていました。

 そのときに思ったんですよね。PISA=国際水準=良いもの、という枠で良いのか、と。

 そこで今回の小林さんの論文なのですが、最後のところで、PISA型の学力の「普遍性」を問うような指摘がなされています。「PISAというのはどれほど普遍的なプロジェクトなのか」(17頁)、と。そして小林さんは、PISAを実施したOECDについて言及して、以下のように述べられています。

OECDは基本的に、市場経済の成長をめざす「先進」諸国が原則非公開で政策協調を図るための機構である。OECDの調査プロジェクトの枠組みが「国際的な適用性」をもつというときには、そうした限定的な性格に留意すべきだ。(17頁)

だから小林さんはおそらく、現在の市場経済、資本主義を無条件に肯定するPISA型学力観に対して、疑問をもたれているのだと思います。そして、PISA型学力を前提とする中教審・審議経過報告に対して、こうも書かれています。

そこに言われているのは誰と誰の習慣であり倫理観であるのか。翻って、それらの習慣や倫理観を基礎とする限りで対応でいるのは、誰と誰にとってのどの範囲の社会変容なのか。

既存の市場経済、資本主義、そしてそれを前提とした学力観を無条件で受け容れることへの疑問だと私は読みました。この論文が掲載されている雑誌の性格からも類推して。

 こういったトーンに対して私は、正直、自分の立場を決められないでいます。

 確かに小林さんのおっしゃることもわかるのですが、PISA調査も悪くないと思ったりして。

 だから、かつて、PISAを使って文部科学省批判を展開された方々に、本当にお聞きしたいのです。

 教育学は、簡単に結論が出るようなものばかりではありません。私にもわからないことはたくさんです。

 アジールの学生さんとも議論をして、深めてみたいと思っています。

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2006年12月17日 (日)

リメディアル教育。

 最近、リメディアル教育について考える機会が多いです。いわゆる大学での補習教育です。
 リメディアル教育が最初に叫ばれたのは、確か、理系の学部において、だったと記憶しています。理科が1科目で受験できるから、生物や化学を学ばずに大学に入学する医学部生が現れ、大学で補習を行うようになった、というあたりが最初だったと思います。
 大学における補習教育は、着実にそのシェア(?)を拡大しました。「日本リメディアル教育学会」というのも誕生し、研究・実践が進められているようです。

 このリメディアル教育の内容は、実に様々です。が、大別すると、理数系の科目、英語、それに、国語(日本語)といったものに分けられるでしょう。私は、作文教育や文学、言語学に関心を寄せているものですから、当然、国語(日本語)の教育内容に関心を持っています。
 ところでこのリメディアル教育は誰が行っていると思いますか? 大学が行っているものですから、当然大学の先生でしょ、と思われるかもしれませんが、必ずしも大学の教師が実施しているわけではありません。もちろん、大学の先生が、一生懸命カリキュラムを作成されてはいるというケースもありますが。
 その一方で、予備校をはじめとした民間の教育機関が教材作成を請け負っているケースもあります。
 具体的にはどういう教材で、どういう学力をつけることを目指しているのだろう? と結構関心をもっておりましたところ、偶然、その教材を目にすることができました。国語に関わる問題です。
 それを見ていると、漢字の書き取りから始まって、小論文の作成までが求められていました。なかなか丁寧に作られているなあとは思いましたが、少なくとも一般の大学受験のためにする学習とは質的に異なりますから、学生さんたちは苦戦するだろうなあと思いました。途中で添削指導をするなり、学生さんと面談をして、話を聞いてあげて、そこから書く「種」を発見させるようなお手伝いをする人がいないと、ちょっと厳しいかなあと思います。
 そういう実践が、大学で行われていく必要があるのかもしれません。

 余談ですが。
 もし私がリメディアル教育をコーディネイトすることができたら。
 漢字検定や文章能力検定といった検定試験を効果的に使いながら、論文の素材としては、PISA調査型の問題を作成しようと思います。PISAの場合は、採点基準もはっきりしていますし、論述する力が相当つけられると思います。よくある高校入試問題のような、200字程度の短作文ではだめだと思いますよ。PISA調査のような問題に耐えうるような学力が必要だと思います。あれが一定程度できれば、大学での学習も大きく前進すると思います。

 そういえば。
 これを書いていた思い出したのですが、おととし、PISA調査の結果が報道されてから、日本の子どもの読解力の低下が話題になりました。時の文部科学大臣は、だから、素読が大事だ、といったことを発言されていたと記憶しています。
 「国語」「読解」という言葉のイメージからだと、この大臣の発言、あたっていると思いません?
 でも実は、まったくこれでは、あたってないと私は思います。
 PISAの読解リテラシーの問題は、素読をいくらやっても解けるような問題ではありません。なので、PISA調査を根拠に、「日本の子どもの読解力の向上を目指す」というのであれば、PISA調査の問題に対応できるような質の学びが必要不可欠だと思います。
 そこがあまりにかけはなれていましたから……
 PISA調査って、「順位」だけが先行していますから。どれだけの方が、問題を実際にみてらっしゃるのでしょうか? 文部科学省のサイトに掲載されていますから、部分的にでも見ておいてほしいと思います。教育を学ぶ人であれば、なおさら、ですね。

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2006年12月15日 (金)

教育基本法が変わった。

 教育基本法の「改正」が可決されました。
 2003年に中教審答申が出されて以来、こうなるだろうことは予測はあり、教育研究者の中でも、あきらめムードが漂っていたような感じがします。私なんかがそうなだけかもしれませんが。
 これからどうなっていくのか。危機感だけを感じます。

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2006年12月10日 (日)

斎藤美奈子さんの教育基本法メール。

登録しているMLから斎藤美奈子さんのメールが転送されてきました。教育基本法案についてです。

斎藤美奈子さんは、私の大好きな批評家です。彼女の文体は、すばらしい、の一言につきます。

みなさま

こんにちは。Bccで失礼します。
あっというまにもう師走。すっかり冬の気配ですね。

ところで、ご存じのように教育基本法改正案が衆院を通過し、今週中にも参院を通って、今国会で可決成立しそうな気配です。
私は昨年の自民圧勝に続き、2度目の絶望モードに入っていましたが、
「そういえば可決するすると言われながら、なかなかされねえな」
と思いませんか。それは偶然ではなく、国会前で連日すわりこんでいる人たちなど、市民運動がそうとうな盛り上がりで、これを阻止しているという面があるらしいのです。
詳しくは、このへんで読めます。

http://www.stop-ner.jp/index.html
http://www.kyokiren.net/

ジャーナリズムは腐ってますね。なぜこれを報道しないのでしょう。
で、ですね。遅ればせながら、せめてもの抵抗としてネット署名をしましょうよという呼びかけです。
教育学の西原博史さん、廣田照幸さん、藤田英典さんらが呼びかけている緊急署名運動です。

署名はこちらから。
http://www.stop-ner.jp/061206shomei.htm
http://www.fleic.dyndns.org/cgi-bin/appeal1206.cgi

ずっとヤキモキしていたのでしたが、絶望するにはまだ早いってことで。
何もやらないのって悔しいじゃないの。
べつだん誰に頼まれたわけでもなく、あったま来た私が勝手にメールをさしあげてみました。すでにご存じでしたらごめんなさい。
このメールは勝手に転送くださって結構ですので。ではでは。

久々に市民運動意識に目覚めた(笑)斎藤美奈子

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2006年11月25日 (土)

関心を集中させるということ。

 が~ん。今、結構長文の記事を書いたのですが、全部消えてしまいました(涙。何か別のソフトで書いていればバックアップが残ったのかもしれませんが、私の場合、直接、サーバー上で書いているので、バックアップが見当たりません。せっかく書いたのに。でもまあ、仕方がありません。こうして2回目を書いていると、きっと、先ほどとは全く違った「オチ」の文章になることでしょう。自分でもどう落ちるかわからないという、書くことの楽しみを味わいながら、また書いてみたいと思います(眠いことは眠いのではありますが(汗)。

 私のような仕事をしていると、学生さんから、卒業論文や修士論文、大学や大学院の志望理由書、研究計画書の指導をよく求められます。できる限りはお引き受けし、一緒に楽しく勉強させていただいてはいるのですが、なかなか大変だよね、と感じるケースも少なくありません。

 私が大変だよね、と感じるケースは、むしろ、学力の高い、比較的「良い子」で通ってきた学生さんのケースです。

 彼らは、学力がありますし、いろいろなことをそれなりにこなすだけの力があります。そういう意味ではとても楽しみな方が多いのですが、その自分の能力を、一点に集中させることがなかなか難しいのです。学習意欲の高い方も多いですから、なるべくたくさんのことを学びたい、なるべくたくさんのことを包括できるようなテーマを選定したい、という無意識的な欲望が強いように感じるのです。例えはっきりと、自覚はされていなくても。

 そういう精神の状況の中で選択されてくるテーマというのは、「学校制度と教育」「理想の教師とは」といった、概括的、価値的なものが多いのです。

 う~ん、これではなかなか論文にすることは難しいです。

 そもそも、「学校制度と教育」なんて、教育学の一つの領域ですし、一生かかってもおそらく終わらないテーマです。また、当為の学で課題を設定していっても、論文で検討した結果の「答え」を導き出すのが難しいと思います。

 論文というのは、そういうものではないんですよ。

 なるべく問題を狭く、はっきりと限定した課題を設定して、仮説を提示し、何らかの実証を行い、結論を述べる。ただそれだけのことではないでしょうか。

 だから、「答え」が導きだせるような課題を設定することが大切なのです。

 高校と大学の学びの大きな違いは、大学では、「問う」力が重要になってくる、ということだと思います。どのような問い方をすればいいのか、それに多くのリソースを注ぐ必要があります。そして、問いの質によって、論文の質が大きく左右されてくるのです。

 う~ん、やっぱり、全然違う方向に落ちてしまいましたね。もう少しこのテーマで書きたいとは思うのですが、続きはまた後日に。

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2006年11月17日 (金)

教育基本法の第10条。

 教育基本法が、衆議院で可決されました。安倍首相が教基法の改正には強い意志をお持ちのようですから、おそらくこのまま、参議院でも可決されてしまうのでしょうね。

 教基法の「改正」をめぐっては、やはり、内田樹さんのブログ記事「教育基本法と真の国益について」が面白かったと思います。いろいろと報道されていますが、やはり、10条がポイントだと思います。

(教育行政)
第10条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

この条文の「不当な支配」をめぐって、戦後、様々な解釈が行われてきました。戦後直後には、「不当な支配」には、文部省も含まれていたわけです。

 そういえば、私の学部の教育行政の先生は、10条と教育委員会法と家永裁判がわかっていれば教育行政はよいとおっしゃり、2学期はこの3つしか授業をされていませんでした。

 私もその影響でしょうか、今回の改正で、何よりも10条をめぐる議論が重要だと思っています。

 内田先生。私もまったく先生の書かれたことに同感です。そして私自身、「私塾」をつくってしまいました(笑

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2006年10月23日 (月)

理想の単一の教育論なんて。

 内田樹さんのブログを読んでいたら、笑うに笑えない記事がありました。全面的に賛成なので、その一部をご紹介したいと思います。

「理想のたこ焼き」というものをつくり出したいとする。
あなたならどうします。
「理想的なたこ焼きレシピ」を衆知を集めて作成し、「理想的なたこ焼きマシン」を作成して、全国のたこ焼き屋に配布し、それ以外のたこ焼き作成を禁じ、全国津々浦々どこでも「同じ味のたこ焼き」が食べられるようになれば、それで日本の食文化の水準が上がったと誇らしげに言う人間がいるだろうか。
いるはずがない。
あらゆるところでレシピが違い、道具が違い、焼き加減が違い、トッピングが違い、値段が違い・・・という「でたらめさ」がたこ焼きの質的向上と不断のイノベーションを可能にしているということに誰でも気がつく。
どうして「たこ焼き」については「理想の単一のたこ焼き工程など存在しない」ということを国民のみなさんはにこやかにお認めになるのに、「人間」については、同じことをお認め頂けないのか?
私にはその理路がわからない。
人間もたこ焼きも一緒である。
「教育はどうすればもっとよくなるのか」という創意工夫を自分の責任において引き受ける人の数が増えれば増えるほど教育は「よくなる」。
当たり前のことである。
「ありうべき教育」がどのようなものであるかは「こちら」で決めるから、教師たちはそれに従うように、という教育行政のあり方そのものが教育をダメにするのである。
安倍内閣は仄聞するところでは教育改革にたいへん熱心であるらしい。
教育基本法を改定し、教師の資格制度を整備し、学習指導要領を緻密化し、教育委員会による教師たちの統制と支配を強化する・・・という施策は「ありうべきたこ焼き」を全国のたこ焼き屋に作らせるために、「たこ焼き基本法」を整備し、「たこ焼き士」認定制度を作り、「たこ焼き作成要領」を法整備し、「たこ焼き監視官」を全国に網羅的に配備して、「青のりの散布量が標準値よりも少ない」たこ焼き屋を摘発するのとまったく同じことである。
申し上げるけれど、そんなことに行政的なリソースを割くのは、税金をドブに棄てることに等しいであろう。
それによって教育が今より少しでもよい方向に行く可能性は限りなくゼロに近い(「ゼロである」と言い切れないのは、教育改革のあまりのばかばかしさに全国民が気づいて「もうこんなのやめようよ」と言い出す方向に棹さす可能性を否定できないからであるが)。
私は「教育はいかにあるべきかに」ついて首相官邸にいるどの政治家官僚よりも長い時間考えてきている。
これについては自信がある。
その私が言うのだから、信用して欲しい。
日本のたこ焼きのレベルを上げようと思ったら、たこ焼き屋に創意工夫をするフリーハンドを与えることが最良の方法である。
教育も同じである。
政治家と官僚たちは(ついでにメディアの諸君も)お願いだから学校のことは忘れて欲しい。
あなたがたが学校のことを忘れてくれたら、それだけで日本の教育はめざましい復活を遂げるであろう。
それは私がお約束する。

という話なのだが、今日、学生さんたちとこの文章を読んで、笑うに笑えない話だということを始めて知った。

食品関係の会社に勤めていた学生さんが、まさにこの「たこ焼き」と同じように、食品を作っていたという。機械を使って加工食品を作るためには、マニュアル作成が重要。その食品を作るときに、まったくノウハウが無いアルバイトのような人たちでも、一定の同じ「味」のものが作れるように、まさに「たこ焼き基本法」を作成しているそうだ。

なので内田さんの「たこ焼き」については「理想の単一のたこ焼き工程など存在しない」ということを国民のみなさんはにこやかにお認めになるのに」というのは、現実とは違うかも、と言わざるを得ないのかもしれませんが(笑)。

まあそれはともかく、単一の「理想の単一のたこ焼き工程」があったとしても、人間にそれが当てはまるはずは決してありません。

子どもが違い、教師が違えば、同じ教育方法でも効果は全く異なります。私自身も、相手によって常に教材を変え、語りの内容を変え、語り方を変えています。同じ内容・語りでも、まったく反応が違うためにとまどうことも少なくありません。

よく考えれば、そんなことって当然のことですよね。私たちは日常的に、相手の反応を見ながら、自らの表現方法を変え、少しでもコミュニケーションが進むように努力するものではありませんか。

それからもう一つ。

こうしてアジールを開いて自らが教育実践を行う場面が多くなると、調査者として教育現場に入ることの意味について考えさせられます。私自身、「研究」と称して現場に入り、ペーパーをまとめ、メディア(大小の違いはありますが)でも発言をしてきました。

どこかで、「子どもバッシング」に加担したなあと思うような部分もあり、反省の気持ちをいだかないわけでもありません。

こうして実践の場に身を置くようになり、「学校のことは忘れて欲しい」ということに強く共感しています。

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2006年10月16日 (月)

一般誌の教育論。

 一般の11月号で3誌(もっとあるかもしれないけれど)が、教育問題について特集をしています。『中央公論』の「公立校は立ち直るか」、『文藝春秋』特別版の「教育の力を取り戻す」、『Voice』の「教育は再生するか」といった感じです。
 とりあえず、3冊を買って、読む。
 ふむふむ。
 執筆者でかぶっている方もいらっしゃいます。八木秀次さんが『Voice』と『中央公論』、内田樹さんが『文藝春秋』と『中央公論』、茂木健一郎さんが3冊に。テーマは違ったりしていますが。このお3人は、なんとなく私の中では近い方々なので、なじみのって感じです。
 もちろん雑誌には「主張」というものがありますから、それはそれで楽しく読むのですが、なんとなく、『中央公論』のトーンが面白かったです。内閣官房副長官の下村博文さんの「水準を満たさない学校と不適格教師は退場してもらう」という記事の次に、内田樹さんの「“公教育”の知的プラットホームを再建せよ」というインタビューが続きます。
 前者では、公立の「私学化」を図るべきことが強調されています。後者では、私立校では“公民性”が育たない、と主張されていますから。一つの雑誌としてみると、なかなか面白いと思います。こういう雑誌のつくりって、いいと思うんですよ。
 この2つのインタビュー、個々の論点はいろいろありますが、一つだけ。
 内田樹さんの最後の部分は、いつもの内田さんのトーンなのですが、いいですよね。
 「「こうすれば絶対よくなる」という断言は教育の現場では禁句。革命と同じで、正義を一気に実現しようとすると必ずもたらされたもの以上のものが破壊される」
 本当にそうだと思うのです。

 それからもう一つ。
 同じく内田樹さんが『文藝春秋』に書かれた「教育崩壊と経済合理性」というエッセイには、次のように書かれています。
 「いま大学は「志願者を選ぶ時代から志願者に選ばれる時代」になったと言われている。しかし、それは子どもの欲望にすり寄り、子どもにもわかる利益によって誘導する教育機関だけを残すことに同意することである。市場原理に従えば、「6歳児でもそこで学ぶことがもたらす利益を理解できるような大学」がもっとも多くの志願者を集めることになるだろう。現に、日本中の大学は生き残りをかけてそのようなものになるために全力を尽くしている。
 この事態を形容するのに「教育崩壊」という以外の言葉を私は思いつかない。」

 アジールの教育理念を文章化してほしいと、方々から言われます。今の私の水準で書けること、あるいは、アジールを「選択」してくださる方が理解する水準で書けることは、確かにあるのかもしれません。けれど、どうもそれでは、私の目指している実践を表現することができないように感じてしまうのです。
 どの水準で書くか、まだよくわからないのですが、一つには、「アジールに来ると、こんな「いいこと」がある」というのが、オーソドックスなパターンなのだと思います。内田さんは、『中央公論』の方では、こう書かれています。
 「消費者としての親が投資とリターンの図式で教育を考えるから、当然学校の側も、「うちに通うと、こんないい大学に入れますよ」「こんないい会社に入れます」とか「こんな資格や免許状がもらえます」といった換金性や社会的需要の高い「教育商品」をわかりやすく提示するようになる」
 それが子どもたちにも入り込み、結果として、子どもたちの知的水準でもわかるようなリアルな利益として内田さんは、金、権力、エロス的愉悦などをあげておられます。
 もちろんこういった需要を無視するつもりは私はありません。きちんと学力をつけて、自立して生活をしていくだけのお金を稼げるような職に就くこと、そのために資格や免許状を取得することを軽視するつもりはありませんから。
 でも、そこにとどまらないような学びをアジールでは組織していきたいと思っているのです。自分の理解の及ばない範囲、すなわち他者がいるということを知らせることは、教育が行う大切な仕事の一つだと思うのです。ただ、そういった明示的にわかりやすいものではないものを掲げて、それこそ、「志願者に選ばれる」のか、疑問、あるいは不安が無いわけではありません。

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2006年9月29日 (金)

課題文が提示された小論文について。

 わあ、気がついたらもうこんな時間ですか。今日締め切りの仕事があったもので、ずっと仕事をしていたら、こんな時間かあ。ため息。早く自宅に戻って、少しは寝ないと、明日(今日)も、帰宅が12時を過ぎる予定なので、まずいです。

 今日は、学生さんの小論文をずっと読んでいました。課題文が提示されて、それを読んだ上で、論述する、というタイプの問題です。意外と学生さん、苦戦されています。
 今回の出題文は、非常に教育的なテキストでした。ある意味で、非の打ち所の無い、全部が共感できるようなテキストだったので、書きづらかったのかもしれません。
 でもたとえそうであったとしても、やはり、課題文が提示されている出題の場合、出題文に言及しながら自らの見解を述べてほしいと思います。論文の中で、出題のテーマが独自に展開されていたとして、出題文との関わりが読み取れないものでは、出題の意図が理解されていないと判断されかねません。また、出題文をなぞるだけの解答も避けてほしいと思います。出題文の筆者の主張と、自分自身の主張を区分し、両者の関係について自覚しながら、解答を作成してほしいと思います。
 だから、課題文が提示されている小論文の採点基準は、はっきりしているんですよ。

 さあて、早く家に帰って寝なくっちゃ。今日は何時間、眠れるんだろう(泣)。

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2006年9月25日 (月)

週末の授業。

 週末は教育学の授業。
 とりあえずまずは、21日の東京地裁判決について。政治的な話題を含むので、話しづらいのではありますが、でも、これだけ大きく報道されているのだから、触れないわけにはいかないでしょう。
 東京都が卒業式や入学式等で日の丸に向かって起立し、君が代の斉唱を強要するのは違憲違法だとして都立学校の教職員らがその義務がないことの確認を求めた訴訟で、東京地裁の判決が出されました。東京地裁は、原告の全面勝訴、「通達は不当な強制に当たり、憲法が認める思想・良心の自由を侵し、教育基本法にも違反する」と。もちろん都は控訴する方針です。
 日の丸・君が代をめぐる裁判で、憲法19条が保障する思想・良心の自由の侵害を明確に認めた判決は初めてです。教職員側が敗訴する判決がこれまで出されているので、今回の判決には、正直、驚きました。今、こういう判決が出されるなんて。また、教育基本法10条が禁じている「不当な支配」の中に教育委員会が含まれることにも。確かに、立法当初は、「不当な支配」の中に文部省も含まれると当時の国会で答弁されていたと思いますが、その後、いろいろと変わってきたので。
 もちろん東京都は、控訴する方針。判決の翌日に臨時の校長会を開いて、通達通り指導をすることを強調しています。
 ここまでやって東京都は、何をしたいと思っているのでしょうか? 「子どもたちの規律を取り戻すために、ある種の統一行動は必要。その一つが国歌、国旗に対する敬意だ」と石原都知事は指摘しています。日の丸・君が代への敬意で、子どもたちの規律は取り戻せるのでしょうか。そんなに簡単にいくのでしょうかねえ?
 それに、国歌や国旗への敬意というのは、「強制」して「処分」するような形で涵養されていくものなのでしょうか? 自分が敬意を払っているものに対しては、誰だって自然に頭を垂れるのではないでしょうか。処分が怖くて、強制されているから頭を垂れるのではないと思います。逆に、 「自分に敬意を払え」と叫ぶような人には、敬意は生まれないと思うのです。自分に敬意が払われない場合、強制によって敬意を払わせるような人には敬意は生まれません。なぜ自分には敬意が払われないのかを深く反省する人、そして、自分とは価値の異なる人の存在を受容できる人に敬意は払われるのではないでしょうか。
 どこかで見たヴォルテールの言葉。
 「あなたが言っていることに、わたしはまるで同意しませんが、それを言うあなたの権利のためには、体を張ってでも戦います」
 オルテガも、そんなようなことを言っていましたよね。

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2006年9月20日 (水)

Yさんの「教育実習日記」2。

 Yさんから「教育実習日記」の続報が届きました。

 彼女は、本当にいい感性を持っていますよね。

 今日は、実習生の体育の授業にTTとして入りました。
  反省会で「TTはメインの教師よりも重要だ」と言われました。
  個別支援、メインの教師の補助、そして何よりも雰囲気づくりをするべきだ…と。
  TTという存在を少し履き違えていました。
   
  ほかの実習生の授業も見学しました。
  「興味の持続」の難しさを知りました。
  最初に興味を示してくれても、3~5分ごとに新しい刺激を与えなければ、興味は持続しにくい。
  指導の工夫が必要であり、指導の工夫によって理解度も変わってくる。
  本当に難しいです。
   
  指導案は骨組みであって、実際に授業をしてみなければ何が起こるかわからない。
  適切な判断と柔軟性が必要なのですね。
  予想外のことが起こると意図・ねらいを達成することを忘れがちになってしまうようです。
   
  児童の笑顔を見ることができたり、自分との距離が縮まっていることを感じたり、
  たくさん嬉しいことがあります。
  元気の源をくれる児童たちに、少しでも楽しんでもらえるような授業にしたいと思います。
  頭はいろんなことでパンクしそうですが…

私は、以下のような返信を、Yさんに送りました。

「TTはメインの教師よりも重要だ」
納得ですね。
今、どの子の支援をしなければならないのか、ぱっとその場での判断を求められますからね。
もしかしたら、最も教師的な仕事なのかもしれません。
こういうその場の判断ということが、教師の専門性なのだと理論的には言われているんですよ。

現場でいろんなことがあっても、ほんと、子どもたちが救ってくれますよね。
だから教師の仕事ってやれるんじゃないかなあ。
私にとっては、学生さんの一言ですかねえ。ははは。

Yさんの「実習日記」、早速、アジールのブログに転載させていただきます。
すごくいい「実習日記」だと思います。
実習の後、こうしていろいろと書き綴っている中で、昼間には気づかなかったことに気づくってこと、ありませんか?
生活綴方教師は、夜、子どもに優しくなる、とよく言われているんですよ。

てなことで、Yさん、実習、がんばってくださいね。

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2006年9月19日 (火)

論文の節度。

 面倒だなあと思いつつ、往復1時間の「自宅」にPCのソフトを取りに行った後は、アジールで、学生さんの答案の採点。B4判1枚程度の小論文の採点なのだが、これが結構な量なので、結構大変。

 採点をしていて、何度も同じことを書いているような気分になる。あれれ? こういうことって、私、授業でも話しているつもりなのだけれど。

 私の言い方が良くないのか、学生さんが自分のこととして聞けていないのか。

 おそらく、その両方でしょうね。

 よくある答案のまずいパターンは、こんなに短い論文なのに、複数の論点が混在しているもの。たった1枚で、そんなにたくさんの論点を論じることはできないでしょ。だから当然、散漫で、尻切れトンボで、論理が飛躍し、根拠が不十分なものになってしまっています。

 序論で論点を一つに限定し、そのことだけを論じるんです。ただそれだけのことなのですが。

 そういえば、このことについても、内田樹さんのサイトで記述がありました。古いブログからですが、紹介しておきましょう。

あのね、キミは学術論文のフォーマットというものがわかっていない。
「モノグラフ」というのは「論点は一つ」と決まっている。
一つの論点を選び、それについての仮説を提示し、それを論証してみせる。
ただ、それだけのことである。
いったい何が論点なのか、それが明示されなければ論文ははじまらない。
しかるにキミの論文は何を論証するのだがよくわからない。
論点は手塚治虫のヒューマニズム論なのか、手塚のジェンダー・ブラインドネスなのか、『ブラックジャック』作品論なのか、「登場人物=記号」論批判なのか…
私にもわからない。
わずか20枚ほどの論文では、それらすべてを論じることはできない。
なぜ、論点を一つに絞るという「節度」が保てないのか。
ある種の知的な学生さんたちの書き物の特徴は、この「節度のなさ」である。
論点ひとつに絞るというのは知的な「節度」を持つということである。
どれだけ多くの参考資料を渉猟したとしても、論点から外れることについては触れない。
「あれも読みました、これも調べました…」と手柄顔で列挙していると、結局何が論点なのかがわからなくなってしまう。
あまり知られていないことだから、この機会に申し上げておくが、「よくできる」学生さんの書く論文が陥る最大の欠点は「証明過剰」ということである。
その仮説が「当てはまる事例には当てはまる」というところで踏みとどまれずに、「すべての事例に当てはまる」という方向へ前のめりになってしまうのである。
残念ながら、「すべての事例に当てはまる」ような仮説というのは、ほとんどの場合「雨が降る日は天気が悪い」というような無意味な同語反復にすぎない。
節度を失った仮説は必ず凡庸化する。
そして誰でも知っており、誰でも同意する仮説に学術的価値を認める人はいないのである。
だから、凡庸でありたくないと望むなら、「限定的事例にのみ妥当する奇妙な仮説」にあえて踏みとどまらなければならない。
この間、春日武彦先生に教えて頂いたのだが、ある種の統合失調症患者は「世界のすべての事象を説明できる単一の方程式を発見する」ことへの固執を示す。
宇宙の真理のすべてが「ワンフレーズ」に収まることを彼らは切望するのである。
言い換えると、「世界のすべての事象を説明できる単一の方程式」への欲望を自制できることが「健常な知性」の条件だということになる。
モノグラフが成立するか否かは、ひとえにこの「自制」にかかっている。

ということなのですよ。

 「世界のすべての事象を説明できる単一の方程式」を見つけることが知性だと、子どもの頃の私は信じていました。これは極めて「子どもの思考」なのですよ。

 論点を限定的に設定し、そことの関わりだけで本論を展開するんです。それ以外は、例えたくさんの本を読んでいても、書いてはいけません。

 学生諸君の健闘を祈ります。

 

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Yさんの「教育実習日記」。

 地方の教員養成系大学に編入学した教え子からメールが届きました。彼女は、障害児教育を専攻しています。大学の付属の学校で教育実習をしているようです。

 読んでいて、教室の子どもたちのこと、そして、初めて「先生」と呼ばれる中で、精一杯彼女ががんばっていること、子どもとの関係をつくっていることが伝わってきていいなあと思いましたので、転載します。

  今、ちょうど教育実習1週目が終わったところです。
  「先生」と呼ばれること歯がゆさを感じています。
   
  附属の特殊学級の子達は、比較的障害が軽いと思っていました。
  確かに重度はいません。
  言語的に困る子はほとんどいません。
  それでも、書くことが出来ない、場の空気が読めない、柔軟性がない…
  一人ひとり状態が異なっています。
  個人のなかでも、日や時間によって状態が違うことも知りました。
  言語的コミュニケーションに問題がないため、
  ふとしたところで難しさを突きつけられます。
  とても奥が深いです。
   
  最近驚いたことは、私が自分のことを「私」と呼んだところ、
  児童に「次、私の番!」と言われました。
  自分のことを「私」と呼ぶ概念がないのだと…
  (名前を覚えられていないってことにもなりますが)
   
  自閉症の男の子には、最初は適度な距離感をもたれていました。
  日がたつにつれて、側にいてくれる時間が長くなったり、指示が通るようになりました。
  着替えのとき「1番上のボタン、パッチンして」と言われたのには本当に嬉しかったです。
  (自分で出来るので、してあげませんでしたが、本音はしてあげたかったです!笑)
   
  その子がとてもニコニコしている日がありました。
  学校外の日だったので、私は単純に楽しいのかなと思いました。
  しかし、実際は違った環境に落ちつかなかったようです。
  必ずしも、ニコニコ=楽しいというわけではありませんでした。
   
  卓上では全く感じられないことを書ききれないくらい感じる毎日です。
  明後日からは授業をします。
  自分の発想力・思考力のなさに悩まされますが、なんとか頑張りたいと思います。
   

 去年の今頃、彼女と、大学の編入学の試験で格闘したことを思い出しました。あの子が、教育実習をしているなんてねえ。本当に早いものです。なんて言うと、私がやたら年を取っているようですね。ははは。

 最終的に進路を決めるのに、ものすごく悩んだ学生さんでした。

 彼女に言ったか、覚えていないのですが、そのときの選択が正しかったかどうかは、その後の人生が決めることだと思うのです。こうして今、子どもたちに精一杯向かっている彼女の姿を見ると、きっと、あのときの選択は正しかったのだと思いますよ。

 がんばってほしいと思います。応援していますよ。

 教師というのは、自分の存在を消すために仕事をしているのだと思います。だって、いつまでも「先生!」と子どもや学生さんが頼ってくるようだったら、教師の仕事は失敗ですよね。自分がいなくても生きていけるように、その子が自分で立って歩んでいけるようにサポートするのが教師の仕事だと思っています。

 そういう意味では、教師の仕事は、切ないものです。

 あんなに頼ってきていて、こちらも精一杯応えていたのに、ぷつんと途絶えていきますから。

 そんな切ない仕事ですが、こうして時々、私に依存するためではなく、友人として、自分の語りたいことを語る相手として選んでもらえるということは、うれしいことです。

 教師は子どもに選んでもらうのだと思うのです。

 そういう意味で、彼女のメールで私は、しばらくまた、がんばれると思うのです。

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2006年9月18日 (月)

大田堯の『教育研究の課題と方法』と論文のスタイル

 昨日のもう一つの授業では、大田堯の『教育研究の課題と方法』を扱いました。堀尾輝久の『教育入門』といい、なんか、今的ではない、教育学かもしれません(汗)。でもまあ、こういう世界を全く知らない学生さんには、知らせておくことも、必要なんじゃないかなあ、と思いまして。

 大田先生のご著書は、いわゆる学術的な論文のスタイルとは違うものが多いと思います。本当に、一般の人に語りかけている、というか。大田先生の東大時代の講義を聴かれていたある方は、「漫談」だと言っておられました。ものすごく引き込まれる、と。でもその方は、その後に、ネガティブなニュアンスのことを付け加えてらっしゃいましたけれど。

 今回扱った『教育研究の課題と方法』も、註記はあるものの、キー概念はこのような定義で用い、論文の課題はこうで、仮説はこうで、こういう実証を行って、こういう結論が出ました、といった、よく学会誌で読むようなパターンの論文ではありません。

 学生さんの中には、理系出身の方がいて、いわゆるこういったパターンの論文に慣れている方ですからね、あまりにもなじみがないスタイルだから、「新鮮」だと言われていました。そうとしかコメントできなかったのかもしれませんね。ごめんなさいね。

 こういう、論文のスタイルの違いについて、内田樹さんが、以下のように書いています。内田さんは、転載をお許しくださっている方なので、以下のそれを貼り付けます。

さらさらと小テストの採点をしていると院生のS田くんが、修論の相談に来る。
学術論文のライティングスタイルとして規範化されている作法がどうも肌に合わないというご相談である。
学術論文のスタイルには「アングロサクソン型」と「大陸型」の二種類がある。
社会科学系の論文は(理科系の論文に準じて)アングロサクソン型で書かれるのが普通であるが、宗教や哲学や文学などについて論じる場合は、論文を書きつつある主体自身の思考や文体そのものの被投性を遡及的に問うという面倒な作業を伴うために「大陸型」(フーコーやデリダやレヴィナスやラカンのような書き方)で書かれるのが普通である、ということをご説明する。
「大陸型」の書き手は「アングロサクソン型」の書き物をすらすら読めるが(だってわかりやすいんだもん)、「アングロサクソン型」の書き手は「大陸型」の書き物を理解しようとする努力を惜しむ傾向にある。
S田さんは宗教的経験・霊的経験について論述する予定であるようだが、こういう論文では鍵語(「神」とか「霊」とか)を一義的に定義することができない。鍵語を定義しないままで、「鍵語を定義しえない人間知性の限界性」そのものを問い返す作業をアングロサクソン型の論述で進めるのはかなりむずかしい(できないことではないが)。
学術性を確保しながら、学術性の基礎づけそのものを問い返すためには、言語的なアクロバシーが要求される。
まず「言葉を操る技術」がなければ、何も始まらない、というようなことをお話しする。
お役に立てたであろうか。

 大田先生が『教育研究の課題と方法』で書かれているものも、このようなスタイルで、思考されたものだと思うのです。

 私自身は、社会科学系の大学院を出ていますから、周りは「アングロサクソン型」の論文を書かれる方ばかり。私自身も、そういうものを書いてきました。

 そのもう一方で、「大陸型」のものも読みつつ。確かに、大陸型のものはなかなか読めないものです。

 けれど、読んで、満足のため息をつきながら本を閉じることができるのは、圧倒的に後者なのです。私の場合は。

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2006年9月16日 (土)

久々の授業。

 アジール以外でも私は教えているのですが、今日はその「学校」の久々の授業。夏期講習があったとはいえ、長い人で、1ヶ月近く空いていますからね、やはり、ちょっとは緊張です。それに、今日から授業に参加される方もいらっしゃるし。
 今年、驚いたことは、私の授業を聞きに、地方から週末だけおいでになるという方がいらっしゃるということ。まあ、私の授業だけではなくて、他の授業も、なのですが。それで、週末の2~3日だけをホテル住まいをして、東京に通われる、というわけなのです。皆さん、新幹線で3時間とかかかるところからの「通学」です。
 わあ、どうしよう。
 そこまでしておいでくださっている方が複数いらっしゃるわけですからね。気を引き締めてがんばりたいと思います。
 もちろん、近くからの方にも。
 授業に出るために、引っ越された方もいらっしゃいますからね。
 本当に緊張します。

 今日の時事の話題は、木曜日の「小学生の暴力急増」の新聞記事から。今、教育の世界で何が話題になっているかは、敏感につかんでおく必要がありますよ。特に今回みたいに、どの新聞でも一面で報道されるような「事件」の場合には、複数の新聞を読んでおいてほしいところです。メディアによって、報道の仕方が違いますからね。メディアリテラシー、ということで。ちなみに私は、「学校」では朝日新聞、よくご飯を食べにいくお店では読売新聞、そして自分では毎日新聞を読んでいます(笑)。
 さて、この記事なんですが。小学生の暴力が急増、ということで各紙は報道しているのですが、なんか、腑に落ちないんです。というのは、合わせて各都道府県別の暴力件数も発表されているのですが、例えば2005年度、東京は65件、神奈川は501件なんです。児童数で割って、発生率を比較したら、神奈川の方が児童数は少ないですからね、東京と比べると、極端に多い発生率になるのではないかと思うんですよね。
 えっ、神奈川の子どもって、東京の子どもよりも、そんなに暴力的なの? それを説明する合理的な理由ってあるのかなあ、と思ってしまうんです。
 神奈川と東京の例だけでなく、全国を見ると、そんな数字ばかり……。だから、調査の仕方に、なんらかの特徴があるのではないかと推測します。
 そうなってくると、この調査の「急増」という「事実」そのものを、括弧にくくって再考したいと思ってしまうわけです。

 もう一つの話題は、仲本正夫の『学力への挑戦』から。なんでこんな古い実践記録を?? と思われる方もいらっしゃるでしょうが。実は、堀尾輝久の『教育入門』がテキストになっている学生さんがいて、なかなか読めない、というので、そのフォローに入ったのでした。
 『教育入門』といえば、私が大学1年生のときの購読のテキストでした。S藤先生、この本1冊で、半期の購読を回したのですから、今思えば、すごい(汗)。私なんて貧乏性なので、どんどん、過剰な教材を学生さんに与えてしまいますからねえ。
 それでもって、学部1年のときにこれを読んで、その勢いで、そこに紹介されていた仲本さんの『学力への挑戦』そしてその続編の『自立への挑戦』を一気に読んだことをよく覚えています。
 なんか思うのは、最近の学生さんって、そういう本の読み方が少ないようですね。「何を読んだらいいですか?」とよく聞かれるのです。でも、例えば、テキストになっている本を1冊読めば、そこで紹介されていて面白いなあと思った本を、言われなくても手に取り、それが面白ければ、その著者のものを全部読みたい! って思うものかなあと思うのですが……。だから、私などは、読みたい本ばかりで、時間が追いつかないのですけれど。そんなもんじゃないのかなあ??
 まあ、それはともかくとして、授業では、仲本さんの実践を紹介しました。
 仲本さんの本は、1979年に出版されています。落ちこぼれが言われ、「ゆとり教育」が叫ばれた頃です。この当時、いわゆる高校の底辺校の3年生の数学で、微分積分を教えた、という実践です。
 底辺校の子どもたちの数学の力は、今風に言えば、「分数ができない高校生」といったところだと思います。では、この子たちに、つまづいているところまで戻って、算数・数学を教えればいいのか? というのが仲本さんの挑戦です。
 基礎学力回復のための「治療的教育」、ドリル重視は、最近も叫ばれています。けれど、高校生に小学生と同じ問題を反復練習させるのって、どうなんでしょう? 高校生のプライドが、それを許さないのではないでしょうかねえ。
 だから仲本さんは、そういう実践はしません。高校生ならば、微分や積分の基本的な概念は、基礎学力に問題があったとしても、つかむことができる、と仲本さんは言っています。そういう微分や積分の新しい概念の学習を軸にしながら、問題があれば、基礎的な学力への回復へも手をのばしていく、という、高校生にふさわしい学力、微分や積分の基本の習得と、基礎的な学力の回復の結合した内容が目指されたわけです。
 そして子どもたちは、「根本から」数学を学んだという体験をし、最後には、遠山啓の『数学入門』(岩波新書)が読めるまでになっていくのです。
 この仲本さんの実践って、今、これだけ、基礎学力、ドリル学習の必要性が言われている中で、改めて読み返してみてもいいのではないでしょうかねえ。学ぶということは、抜けているところをそのまま補うような単線的な過程ではないと思うのです。
 仲本さんの実践にたどりついたのは、偶然ではあったのですが、今日の学力論との関わり(その前に、安倍官房長官の教育政策、学力調査等にも言及しておきましたの)で、それなりにまとまった授業になったかなあと思っていますが、受講生の皆さん、いかがだったでしょうか?

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2006年9月12日 (火)

「何のために勉強をするの?」

 アジールの生徒さんに限らないのだけれど、最近、こんなことをストレートに聞く子どもたちが増えたように思う。「何のために勉強するの?」「勉強をして、何の得になるの?」そんな問いばかりだ。

 この問いに大人、教師は、「誠実に」応えるべきなのだろうか? 「勉強すると、こんなにいいことがあるよ」「こんなに得をするよ」「こんなにお金が儲かるよ」。こんなチープな答えはしない方がいい。でも、子どもの理解できるスキームでは、こんな「わかりやすい」説明しかできない。

 わかりやすい説明はできないにもかかわらず、それでも確信を持って従うべきだと思うことがあります。説明ができないことが、世の中にはあるんです。

 ところで、このような質問は、子どもにかかわらず、よく耳にするようになりました。私の大好きな内田樹さんは、「経済合理性」という言葉でそれを説明しています。経済合理性、等価交換の考え方を徹底すると、勉強をした「見返り」が必ず必要になってくる、というわけです。

 けれど、もちろんこの勉強のことはもちろん、人間にとって大切なことは、合理的に説明ができないものなのです。「なぜ言語を語るのか」「なぜ人を愛するのか」。答えを用意しようとすると、チープなものになってしまいません?

 自分の理解のスキームが及ばないものでも、やる、ということ。そういう等価交換、経済合理性からはずれたことは、どうしたら伝えることができるのでしょうか。とにかく、ねばり強く、子どもたちと関わっていくしかないと思うのです。

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2006年8月31日 (木)

「身を委ねる」こと

 自分の今、持っているスキームで学ぶことの必要か否かを裁定する学生さんよりも、とりあえず私の話に「乗る」ことのできる学生さんの方がどうも伸びるように、経験的には感じています。試験に合格率も、圧倒的にそういう学生さんの方が高いように感じます。

 どうして、私の話に「乗る」ことのできた学生さんの方が、伸びるのでしょうか? 私の講義がそれほど効果的だから? ははは、そんなことは口が裂けても言えません。

 私の話に「乗る」ことのできる学生さんというのは、話の内容がわかろうがわかるまいが、自分の身を相手に委ね、新しいスキームを取り入れることができるのだと思います。自分のスキームが強固な方の場合は、自分のスキームから、「これは必要無い」と判断していきますからね。だから、そう簡単には、人の話には「乗る」ことができないんです。
でも、「乗る」ことのできる人は、とりあえず、自分の考えは括弧に入れて、すなわち、自らのスキームを一旦手放して、人の話を聴ける人なのだと思います。

 そういう構えのある人は、他のあらゆる場面でも、そのように自らのスキームを手放して新しいスキームを、異なる度量衡の尺度に触れることができる人なのだと思います。
そういう人は、自分のスキームを超えたものを吸収することができる……だから、伸びるのだと思います。

 本当に不思議なもので、どういうわけか、これでかなりはっきり、伸びる人とそうでない人を見分けることができるのです。

 でもまあ、人には相性というものがありますからね。私に身を委ねることができない方でも、他にきっと、そういうことができる人がいるはずです。

 私でなくても、もちろんかまいません。どこかでそういう「他者」を見つけて、自分のスキームを手放す体験をしてほしいと思うものです。

 さて、こういったことを延々と書いているのは、自らの深い反省から。

 私自身は、自らのスキームを確固として生きるよう、再教育された、という悲しみがあります。今だったら思うんですよ、そんな教育は間違っている、と。「こだわり・プライド・被害妄想」(@春日武彦)は、「百害あって一利なし」です。それよりも、こだわりもプライドもなくてして、相手に身を委ねることができた方が、ずっとずっと、成長することができると思うんですよ。

 先週、ほんのちょっとだけ時間が取れたので、アジールの花を植え替えておきました。今日、学生さんが、「先生、お花を飾ったんですね」と言ってくれました。気づいてくれたのは彼女だけかもしれませんが、それだけで、蚊にさされながら、植え替えた甲斐はあったかも(笑

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2006年8月30日 (水)

「勉強って役に立つの?」

 子どもたち(に限るわけでもありませんが)を教えていると、よくこう聞かれます。

 「こんな数学、役に立つの?」「俺、英語なんて使わないし」等々。

 確かに、子どもたちが言うことも、一見、あたっているように思いますよね。だって、私だって、日常生活する上では、微分積分なんて、使いませんから!

 でも、こういう学習をする理由って、子どもたちにわかるように説明することができるのでしょうか?

 勉強をすると、「こんなにいいことがある」「こんなに就職に有利」、そんなチープな資本主義的な枠組みの中でしか、子どもたちに説明することができないのではないでしょうか。というのは、彼らの持っている、理解の枠組みは、現代社会で最も支配的な資本主義、消費社会のスキームですから。子どもほど、ダイレクトに時代を感じ取っている存在はありません。

 人間が行っていることは、非常にわかりやすいことだけではありません。子どもには判らないことが、世の中にはあるのだと思います。

 私自身、そのようなかつての自分のスキームでは理解できないことがあるということを、年齢を重ねる上で痛感する場面が多くなりました。まだまだ、一応(!)若いので、もちろんこれからも、「今」のスキームを壊し、構築していくことの繰り返しだと思います。だからこそ、今の自分のスキームで、「役に立つんですか?」と問うことのナンセンスさを感じてしまうのです。

 「いいからやりなさい」。こう子どもに言うことは、権威的な、悪しき教師像として語られていたように思います。けれど、人間の学びが、自分のスキームを超えた「他者」なるものに出会うということである以上、「いいからやりなさい」は、必然的な構造であるように思うのです。

 教師の側が、それだけの覚悟をもって子どもたちに向かうときには、子どもたちは、その「真実」がわかるようです。こちらの気迫というのは、不思議なことに伝わるものです。
数十人の学生さんの前で講義をしていても、私が、一種のルーティンとして知識を授与するような話の場面と、たとえ余談ではあっても、あるいは、学生さんにはわからないだろうなあと思うような内容であっても、気迫のある内容の場合には、反応が違うものです。そして、後者の話を面白い、と感じている学生さんは、なぜか、伸びるように感じます。

 それはどうしてでしょうか。その理由の一つの説明の物語については、また次回に書きたいと思います。

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2006年8月27日 (日)

作文が書けない!

 ここ数年、子どもたちを教えていて、「作文が書けない」「作文を教えてほしい」と言われることが多くなってきたように感じます。ちょっと前までは、塾講師、家庭教師といえば、英語に数学だったように思いますが。作文教育(生活綴方教育)、言葉、言語、文学に関心を持っている私としては、うれしいかぎりです(笑)。やっぱり、作文、言葉の教育は大切だと思っていますから。

 2005年12月にOECDのPISA調査の結果が発表されました。2000年は8位だった日本の子どもの「読解リテラシー」は14位にまで低下しています。この調査の結果は、順位にとどまらず、質的に日本の子どもの学力を問うものであります。このことはまた、機会を改めて書きたいと思いますが、本当に深刻なんですよ!

 また、2006年2月に発表された、次期学習指導要領についての中央教育審議会の教育課程部会の審議経過報告でも、「国語力の育成」が重視されています。

 ちょっと余談ですが、この報告については、内田樹さんのブログ「言葉の力」 が非常に面白いと思います。言葉を「道具」としか考えない言語観を批判しています。言葉を畏怖すること、言葉の現実変成力。私は、内田樹さんに大きく影響を受けながら、「詩の言葉の持つ力」という論考を書いたことがありますので、大いに共感したものです。

 さて、本題に戻って。

 これだけ世の中が「国語」「言葉」の教育に注目しているわけですから、保護者の皆様が「作文を教えて」とおっしゃるのも尤もなことだと思います。

 もちろん作文にもいろいろな書き方がありますので、教えることはたくさんあります。作文から小論文、論文にわたっていく時にはなおさらです。

 でも、まず一番最初にやっておきたいなあと思うことは、たくさん「読む」ことです。

 作文は「書き方」を習えば書けるようになるものではありません。

 私たちは、これまで私たちが聞いてきた、たくさんのフレーズから取捨選択して、切り貼りをして、言葉を発しています。「私」が語っていることの中で、自分自身が考えたこと、全くの「オリジナル」な部分は、ほんのわずかでしかありません(今こうして私が書いていることも、多くは、内田樹や丸山圭三郎、ソシュール、R.バルトの「受け売り」です)。

 けれども、そのたくさんの言葉のストックの中から、何を選ぶのか、という点において、十分な「オリジナリティ」を発揮することができるのです。

 だから、「作文が書けない」と言う子どもたちには、まずは、たくさんの文章を読んでほしいと思うのです。話し言葉と書き言葉は、全くの別物です。たくさんおしゃべりができる子でも、「話すように書く」ことは難しいものですから。

 読むものは、何でもいいのですが、読書にも抵抗がある場合には、自分と同じくらいの子どもたちが書いた詩や作文はいかがでしょうか。

 手前味噌ですが、私も編集に参加した『ココロの絵本』というシリーズ本があります(それにしても、この「ココロ」というネーミングはひどいセンスですね、内田樹の「言葉の力」的には。でも、私の力では、ネーミングを変えることができませんでした(涙)。この本の中では、小学生から中学生、高校生の子どもたちが書いた詩や作文がたくさん紹介されています。「こんなことを書いてもいいんだ」と思えるような作品もたくさんです。

 まずは、読むことから始めてみてはいかがでしょうか。

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